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台風18号の被害を機に「治水政策」を考える - 2013.09.27 Fri

 9月16日、滋賀県を中心に関西地方全体に台風18号の被害が及んだ。まずは命を犠牲にされた方や被害に遇われた方々に対して心からのお悔やみ、お見舞いを申し上げたい。また私自身政治の中に身を置く者として、一刻も早い復興・復旧、今後の防災・減災に向けて可能な限り動いていこうと思う。そしてそれと同時に、是非この機会に「公共事業」、中でも「治水政策」について考えてみたい。

 近年の「治水政策」は、実に「公共事業悪玉論」を背景に、2001年2月に田中康夫元長野県知事によって提唱された「脱ダム宣言」や、現在嘉田由紀子滋賀県知事によって提唱されている「流域治水」政策などによって様々な混乱を見ているように思う。「脱ダム宣言」とはダム建設を「利権の巣窟」として槍玉に挙げ、全て中止しようというスローガンであり、「流域治水」とは水を川に閉じ込めるのではなく、洪水を前提とし流域全体で遊水地を活用したり建物の嵩上(かさあげ)を行ったりして、基本的に越水も認め、ダムに頼らないで洪水に耐えようとする政策である。

 確かに、田中元知事や嘉田知事、あるいは熊本県川辺川ダム建設に反対した蒲島郁夫知事が示したダム建設に対する問題提起は、治水政策を考える上で重要な参考になるポイントは数多く含んでいる。まず第一に、ダムは建設コストが高く、利権構造につながりやすい。次に、財政的・技術的制約を受ける今の状況ではダム建設が完了するまで時間がかかり、それまでの間の災害に対応できない。三つ目に、どんなに大きな災害に備えても、必ず人知を超えた大災害が発生し、備えた治水能力を超えた「超過洪水」を引き起こす可能性がある。四つ目、ダム建設は上流域にある村や森林を破壊するため、環境破壊につながる。そして五つ目に、ダム建設は上流で生活する人々を移転させるため、そうした水没地区住民に対する社会的配慮が必要だという考えが出てきたことだ。

 しかしながら、これらの論点はダム建設と必ずしも相反するものではない。一つ目、利権構造の問題は、ダムに限ったことではないが、ダム自体が悪なのではなく、ダム建設をめぐる「利権」そのものが悪であり、本来はダムを否定するのではなく、利権構造自体を無くしていく努力を行わなければならない。次に「財政的・技術的制約」や「超過洪水」の問題に関しても、ダムそのものを否定している訳ではない。これは対応するダム建設に時間がかかるため、その間の治水をどうするかという問題で、これこそ「流域治水」という考え方を活用してダムが完成するまで洪水に耐えうる政策が必要だと思う。それから最後に「環境」と「自治」の問題について、これはあくまでも話し合いを重ねて、ダム建設が良いのかそれともダムに頼らない治水が良いのかを、様々な角度から検証し、あくまでも最後は河川管理者が選択していく必要があるのではないだろうか。

 また現実論として、「脱ダム」や「流域治水」という考え方が実際これまで治水政策として不十分であることが証明されてきている。現に、今回の台風18号によってもたらされた滋賀県大戸川の氾濫や瀬田川洗堰全閉の問題(詳細は後述)は、「流域治水」という政策を掲げてきた嘉田知事によって凍結された大戸川ダムが建設されていれば緩和された可能性が十分にある。皮肉なことに、3選を目指した田中康夫長野県知事が落選したのも、2006年7月長野県中部地域を中心に襲った記録的な集中豪雨で諏訪湖・天竜川流域で死者が出る大災害が発生し、有権者の信頼を失ったことが大きな原因の一つと言われている。

 いずれにせよ私がここで結論として言いたいのは、治水は河川によって様々な事情があり、「脱ダム宣言」や「流域治水」のようにダムを否定し、治水政策を一括りにして策定することは困難だということである。

 それぞれの河川の事情が異なるということについて、具体的な例を一つ挙げたい。滋賀県にある琵琶湖は、流入河川が約120本もあるのに対して、流出河川は瀬田川のみである。この瀬田川は京都では宇治川となり、大阪の淀川と合流し大阪湾に注いでいる。たびたび氾濫を起こしてきたこの越境する大河は、これまで歴史的に上下流の対立を生んできた。なぜならばこの瀬田川やそこに注ぐ河川を溢れないように整備すると、下流の水量が増加し、今度は宇治川流域や淀川流域で洪水を引き起こしてしまうからだ。そこでこれまでは人口の少ない滋賀県が瀬田川を全閉したり、瀬田川に注ぐ川の河川整備を行わ無かったりして、いわば犠牲になって京都や大阪の住民を守ってきた。今回洪水を引き起こした大戸川もそうした瀬田川に注ぐ滋賀県の河川の一つであった。

 しかしいつまでも大阪・京都のために滋賀が犠牲にされる状態を続けるわけにはいかない。そこで大阪・京都・滋賀でこの問題をどうするか話し合い、「上流にダムを」という構想が持ち上がってきたのである。上流にダムができれば上下流の対立は回避され、滋賀県としても、国・大阪・京都の予算で大戸川の治水ができ、なおかつ瀬田川洗堰全閉を抑制できるため、この大戸川ダム建設は必要不可欠な計画であった。更に言えば「水源地域対策特別措置法」によって、ダムを建設する地域はいわば「迷惑料」として周辺整備のための予算も付く。時には「飴玉」と呼ばれる予算だが、大戸川ダム建設計画のある周辺では生活道路である大津-信楽線の整備や下水道整備にこの予算が充てられる予定だった。にもかかわらず、嘉田知事の誕生によって「もったいない」ものの象徴として建設が凍結されてしまったのは承知の通りだ。

 瀬田川を含む流域の水系を行政では「淀川水系」と呼んでいる。そしてこの淀川水系は二府四県にも及び、各府県の間で利害対立を生むため、この利害調整は国が行っている。つまり当該水系の管理者は国であり、この河川整備計画は国において閣議決定を要し、策定される。そしてその最上位計画が平成19年に策定された「淀川水系河川整備基本方針」と呼ばれるものである。この中で淀川水系がどの程度の洪水に備えるか、「基本高水」の設定について最大「200年に一度の大雨」(昭和14年の大雨)としている(嘉田知事もこの基本高水には同意している)。しかし、この計画でさえ、財政的・技術的制約から、明治29年の洪水を計画の中に取り込まず「超過洪水」として位置づけている。そしてこの基本方針のレベルを本当に実現しようとすれば、大戸川ダムのみならず多くのダム建設が必要となることは理解できると思う。

 ダムは上流部山奥にあるため都会の人の関心は薄い。まして水系全体の治水対策が長い年月をかけ議論され、国において策定されていることも一般的に知られているとは言い難いだろう。そういう中で、「公共事業悪玉論」を背景に、ダムは利権の巣窟であり、予算の無駄遣いの象徴であるかのように訴え、政治が混乱を巻き起こしているのが今の状況だと私は考えている。もちろん先に挙げたように利権構造の問題など、現在の治水政策には様々な課題がある。しかしながら、少なくとも私たち政治家は、しっかりとした根拠に基づいた治水政策を、世論や人気取りに左右されず、本当の意味で国民の安全と安心のために策定していかなければならないと思う。


「靖国神社への参拝について」 - 2013.08.18 Sun

 8月15日、私は靖国神社への参拝を行った。日本の政治家として、我が国に対して尊い命を捧げた方々に追悼の誠を捧げることは当然だと考えているからだ。しかし今回、安倍総理は参拝を見送り、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。私個人としては非常に残念に思ったが、冷静に、このことについて少し私見を述べてみたい。

 安倍総理は以前、第1次安倍内閣の時靖国参拝を見送ったことについて「痛恨の極みだ」と述べていた。このことからすると安倍総理は靖国参拝を行いたかったに違いない。ではなぜ靖国参拝を行わなかったのか、理由は三つに集約されるように思われる。

 一つは、もちろん中国・韓国に対する配慮である。以前小泉政権下において、総理が靖国参拝を行ったところ、中韓はそれを理由に日本を責め、日本と中韓の関係は冷え切った。その後、政権をを引き継いだ第一次安倍内閣が参拝を見送ったのも、この関係を改善するためだった。

 二つ目は、アメリカに対する配慮である。尖閣諸島などをめぐり関係が悪化している日中の関係がこれ以上悪化して欲しくないと考えるのは、おそらくアメリカであろう。仮に両国が局地的にでも武力衝突でも起こせば、アメリカは沖縄の米軍も含め関わらざるを得ない。大国化する中国と同盟関係を結ぶ日本にはさまれ面倒な選択を避けるために、安倍内閣に参拝を見送るようメッセージを送ったであろうことは容易に想像がつく。

 そして三つ目は、保守政治を取り戻すための政権基盤の強化である。現在、保守派の「現実主義者」の中では、経済が回復するまでは中韓やマスコミからの批判をなるべく避けるべきだとする考えがある。というのも国民の最も大きな関心事は景気の回復であり、景気さえ回復し、個人の生活が豊かになれば、靖国参拝を行おうと、憲法を改正しようと支持率が下がることは無いだろうという考えがあるからだ。

 安倍政権を支えているのは、靖国参拝を求める保守勢力である。安倍総理もそうした支持者の思いは十分に分かっているに違い無い。確かに無理をして今だけ靖国参拝をすれば良いというものではないし、憲法も今だけ変えれば良いというものではない。未来永劫堂々と靖国参拝できる環境を整えることこそ重要である。憲法も、政権が変わるたびにころころ変えるのではなく、納得した上でしっかりと未来永劫続く憲法を制定することが必要だ。

 安倍総理が今回靖国参拝を行ってマスコミに批判されようと、もちろん私は安倍総理を支持しようと考えていたが、先に述べた理由で、今回は「参拝しない」という選択肢をとっても支持しようと思う。現段階で安倍総理が参拝しなかったことを批判して安倍政権が倒れてしまっては、それこそ大きな目的を果たせなくなってしまうことになりかねないからである。

 ただその分、今後安倍政権に寄せられる保守派からの期待は更に大きいものとなろう。

自民党参議院議員会長選挙を通じて「参議院改革」を考える - 2013.08.01 Thu

 7月21日、参議院選挙は自民党の圧勝で終わった。しかしこの自民党圧勝は決して自民党に対する「積極的支持」だけではない。他の選択肢が無いために自民党に支持が集まった、言うなれば「消極的支持」も多くあったと私は思う。衆参の「ねじれ」が解消されたことは、確かに今の日本の政治にとってプラスの側面が大きいが、だからと言って自民党が好き勝手自分たちの政治をやって良いということではない。あくまでも自民党に課せられた使命は、国家国民の利益を考え、そのことに基づく政治でなければならない。

 そういう視点で今回7月30日に行われた自民党の参議院会長選挙を見ると、本当に国家国民のための政治を取り戻す方向に進んでいるのか、私にとっては疑問が生じる面もあった。

 今回の参議院会長選挙は一体何を基準に行われたのか。

 「参議院がどうあるべきか」という理念や政策は全く語られず、所信表明演説も行われず、最大派閥間の調整のみで決められた感が否めない。なるほど、各紙は「派閥政治の復活」と書いた。確かにそういう側面が大きかったのだろう。

 さて、参議院はどうあるべきか。先の参議院選挙で私も含め自民党が訴えた「ねじれ解消」だが、そのことの意味を深く議論しようとする見解は依然少ないように思われる。

 自民党が安定政権を保ち続けた戦後、参議院は「衆議院のカーボンコピー」との批判を受け続けてきた。参議院は衆議院で決定されたことをそっくりそのまま追認するだけだったからである。日本の国会は、衆参が「ねじれ」たら前に進まない、うまくいっても「カーボンコピー」との批判を受ける。従って、「参議院はいらない」という極端な意見までもが出されてしまう。

 しかし、問題の本質は、衆議院と参議院が政党間の足の引っ張り合いに終始してしまうという「政党政治」にある。つまり「政党政治」をとる以上、衆議院と参議院の過半数が与党で占められた場合、国会で決められる前、自民党内の議論で全ての結論が既に出され、あとは衆議院も参議院も与党はそれをひたすら国会を通過させるだけとなる。野党も同様で、判断の基準は、衆議院でも参議院でも自分の政党が有利になるように与党の足を引っ張ることだけになってしまう。確かにこれでは二院制を採用し二重のチェックをする意味が無い。

 ではこの問題を解消し、二院制をとる意味を見出す、つまり本当の意味で参議院を「良識の府(良識に基づき、中立で公正な審議をする場)」とするためにはどうしたらよいか。例えば、参議院議員は政党に所属することを認めない、あるいは参議院議員からは閣僚を出さないなどといったことが考えられる。これらは今殆ど議論されていないが、実は古くから提案されてきた。また大論争を呼ぶことになるかもしれないが、参議院議員は「選挙によって選出しない」という手法も有効かもしれない。

 そもそも戦前の日本は今のように「デモクラシー至上主義」ではなかった。つまり「民意」を絶対視する政治制度ではなかった。重要な課題を決定する場合、選挙によって選ばれていない人物達で構成される元老院や枢密院、そして御前会議の存在など、民主主義とは切り離された、いわば世俗とは一線を画す基準で物事を決定する制度を持っていた。つまり「デモクラシー」に「良識による歯止め」をかける制度が存在したのである。しかし今の日本では衆議院議員も参議院議員も選挙で選出され、言ってみれば両院とも「デモクラシーの産物」と言っても過言ではない状態にある。

 従って参議院の存在意義を見出すためには、例えばマスコミによって生み出された「風」や「空気」と呼ばれる「安易な民意」に歯止めをかけ、更には政党間の利己的な権力闘争から離れて、衆議院に対する公正なチェック機能を持つことを考えていくべきではないだろうか。

 この問題を議論する際、イギリスの貴族院が参考になる。イギリスの貴族院は選挙で選ばれるわけではないが、高度で公正な審議が行われており、国民的支持率が高い。国民によって選ばれているわけではないのに国民的支持が高いのである。この貴族院は、世襲貴族だけではなく、首相経験者などの一代貴族、裁判官経験者である法服貴族、聖職者である聖職貴族などからなり、日本の衆議院にあたる下院よりは権限は小さいが、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いとされている。

 さて、話を元に戻すが、今回行われた参議院議員会長選挙は、今述べてきたように「参議院がどうあるべきか」を議論する絶好の機会であり、そういう意味で各候補者とも理念・政策を主張し争うべきチャンスであったと私は思う。しかし今回はそれがなされず、派閥間の調整で決定されたとすれば、それを選んだ集団は目的もなく代表を決定したいわば「烏合の衆」と言われても仕方がない。

 最後に、私も自民党の一員ではあるが、自民党の決定なら全て無批判に受け入れたり、擁護したりすべきだとは考えていない。発言すべきことは発言し、発信すべきことは発信する、そのことが自民党を変えていくことにつながると思う。また私たち議員は、自民党の一員である以前に衆議院議員として国家国民のために政治を行うべきだという視点を忘れてはならないと思う。



「インフルエンザワクチン」と「子宮頸癌予防ワクチン」を通して考える。 - 2013.06.17 Mon

 平成24年、257万人分の「タミフル」と3000万人分の「プレパンデミックワクチン原液」が使用されず廃棄された。いずれも新型インフルエンザの大流行(パンデミック)に備え、「国民の45%に相当する薬を備蓄する」という国の方針に基づき備蓄されていたものである。廃棄された薬の額は、約218億円にも及ぶ。

 私の選挙区である滋賀県でも、今年11万2千人分の抗インフルエンザ薬(1億8700万円)を廃棄し買い替える予定だが、調べてみると昨年使用したのはなんと8人分だけだという。

 にもかかわらず、私が厚生労働省から取り寄せた資料によれば、平成25年度も繰り越し予算で213万人分のタミフル(約35億円)と290万人分のリレンザ(約71億円)、そして1000万人分のプレパンデミックワクチン原液(59億円)を購入する予定となっている。

 確かに、「パンデミック(大流行)」に備えて、国民の安全・安心を確保するため、抗インフルエンザ薬を相当数備蓄しておくことの必要性は理解できなくもない。しかし、新型インフルエンザの毒性が実は弱くて、死亡率も低いとなれば話は変わってくる。まして、実は「インフルエンザワクチン」の効果が殆ど無いとなれば、その言葉を聞いた人は耳を疑うだろう。

 白血球の自律神経支配メカニズムを解明した免疫学の世界的権威で、現在新潟大学大学院教授の安保徹先生は、このインフルエンザワクチンについて驚くべきことを語っている。「ワクチンなんて歴史的に効いたためしは殆どありません。弱めたウイルスを使ってワクチンを作っているわけで、本物の抗体ができないのです。今までにワクチンを打った人で、その後インフルエンザにかからずに済んだという例はひとつもありません。効果も殆ど期待できないワクチンに、なぜこれほどの税金を投入するのか。愚の骨頂です。」

 私はこの発言を聞いて非常に驚いた。安保教授によれば、文字通り多額の税金を投入し大量に備蓄され廃棄を繰り返しているワクチンは、全くの「ムダ」だというのである。

 政府において備蓄する薬の必要性について検討する場は、厚生労働省所管の審議会・部会・調査会である。ここに各専門家(医者や研究者など)が出席し話し合いが行われるわけだが、むろん既述の安保徹教授はこのメンバーには入っていない。免疫学の世界的権威であるにもかかわらずである。

 更にこの問題について少し調べていて、私はある共通点に気が付いた。このインフルエンザワクチンの輸入元が、今、副作用が問題となっている「子宮頸癌予防ワクチン」の輸入元であるイギリスのグラクソ・スミスクライン社(サーバリックス)だということである。政府は現在この製薬会社から5000万回分(約547億円)のインフルエンザワクチン(期限は1年半)を購入し備蓄しているが、「子宮頸癌予防ワクチン」もこの会社から、平成21年以降1000億円分以上購入しているのである。

 ここから話題を「子宮頸癌予防ワクチン」に移したい。このワクチンはもともと日本の女性たちを「子宮頸癌」から守るという名目で平成21年に厚労省で異例のスピード承認、3年間で約1500億円が投入された。平成25年度予算でも150億円が投入されている。というのも日本全国の11歳から14歳までの全ての少女に当該ワクチンを投与することが法律で決定されたからである。既述の製薬会社は一気に更なる莫大な利益を生んだことだろう。

 しかし、このワクチンの副作用によって死者が出た。その他にも「寝たきり」になったり、運動障害や記憶障害が出たり、後遺症を残す副作用が次々に報告され、厚生労働省が把握している被害件数も現在で2000件を超えるに至っている。日本の少女たちを救うためだと言って多額の税金が投入されたこのワクチンが、日本の少女たちを苦しめているのだ。確かに副作用が生じるのは全員ではないが、死亡してしまったり、一生治らない後遺症を残してしまったものに関しては、取り返しがつかない。

 子宮頸癌にかかる原因は「HPVウイルス」に感染することとされているが、このワクチンで防げるウイルスは、発癌性HPVウイルス15種類のうち、実は16型と18型の2種類のみ。つまりこのワクチンを打っても全てのHPVウイルスの感染を防げるわけではない。またその前に、そもそもこのHPVウイルスに感染する最大の原因は、不特定多数との性交渉をすることだということもわかっている。未成年で未だ抗力が弱い少女が不特定多数の男性と性交渉をすることによって、HPVウイルスに感染する危険性が高まるのだ。

 にもかかわらず自治体でも病院でも、まるでワクチンを打てばいくら性交渉をしても大丈夫であるかのように誘導が行われている。この現状に対して、警鐘を鳴らしているジャーナリストの桜井裕子氏は次のように語っている。「そもそも性感染症は子宮頸癌だけではありません。現に子宮頸癌に感染した女性のうち約4割の人の体から別のウイルスも見つかっています。…ですから、少女たちに対しては、あなたたちは母親になる体だから、将来に向けて自分の体を大切に守らなければならないんですよという母体教育が何よりも必要です。ワクチンを打つべきだというよりも、人の生き方として、どう生きるべきかという教育を行うべきなんです。しかし現状はそういう教育はせずに、このワクチンさえ打てば大丈夫だという安易な誘導が行われています。これで病院も製薬会社も儲かるかもしれませんが、利益のために普及させようというのでは悪魔に魂を売っているようなものです。」

 ワクチンで莫大な利益を得ている人たちがいる。確かに国民の安全や安心を確保することは大切だが、そのことを逆手にとって巨額な利権に繋げることはあってはならない。本当に必要な薬やワクチンは何か、そしてそもそも最善の「リスク管理」とは何か、私も国会議員の一人としてしっかりと研究し、考えていきたいと思う。ある人が「今のワクチンの問題は国防の問題だ」と主張していた。外国の企業がワクチンという手段を通じて日本を食い物にしようとしているなら、確かにそれはまさに「国防」の問題だろう。今後TPPに参加していくなら、まさに外国製薬会社のロビー活動にしっかりと対応する政・官・業の体制が必要不可欠だろう。

 参考までに、以下グラクソ・スミスクライン(GSK)のHPに書いてある文章を引用しておきます。
 「日本は、2011年、極めて高い業績を達成しました。日本は革新性が評価される市場で、GSKは非常に高い発売成績を収めています。ここ3年間で日本における売上は、35%増加し、8つの新製品を発売しました。この中には、特に公費助成の導入に伴い2011年に非常に好調だったサーバリックスが含まれています。今後3年間は、10の新薬とワクチンを含む25以上の適応拡大製品を発売する予定です。この業績と見通しは、日本のマネージメントチームの努力によるもので、そのことにより今や日本はGSKグループの成長機会の先頭に立つ市場となりました。」




誰も語らない沖縄の真実 ~平成25年度予算成立を機に考える~ - 2013.05.13 Mon

 もうじき参議院の審議を経て平成25年度予算が決定する。厳密に言うと参議院では否決される見通しで、衆議院優越の憲法の規定により、衆議院の議決をもって予算が成立することになる。もちろん私は与党自民党の一員であり予算に反対するものではないが、今回の予算で非常に違和感を覚える編成が行われた部分がある。それは沖縄に対する特別な地域振興予算である。

 元々沖縄に関する特別予算は他府県と比べて群を抜いて大きかった。しかし本年度予算は、民主党政権において鳩山元首相の「最低でも県外」発言によって起こった混乱を収拾するため増額された額よりも、更に大きくなった。

 例えば内閣府所管の一括交付金は、他の都道府県では廃止されたにもかかわらず、沖縄だけはそのまま存続され、更に増額された。内訳は、ソフト事業(沖縄振興特別推進交付金)が803億円、ハード事業(沖縄振興公共投資交付金)が810億円、合計1613億円にまで膨れ上がった。

 沖縄の特別な予算はもちろんこれだけではない。総務省所管の「特別交付税」も日本で一番多額であり、もちろん基地に関連した「基地交付金」、「調整交付金」といった米軍基地に関連した巨額交付金も存在している。それに加えて、防衛省所管の「特定防衛施設周辺整備調整交付金」という名目の交付金もある。このように沖縄に交付される様々な予算は、おそらく役所も全体像を殆ど把握できていないのではないかと思うほど多岐にわたり存在している。

 さて、ではなぜ沖縄にこれだけ巨額な予算が毎年毎年投入されることになったのか。その根底には役所の中で絶対的な前提とされる「四つの特殊事情」と呼ばれるものがある。それは①沖縄が26年余りにわたり我が国の施政権の外にあった「歴史的事情」、②広大な海域に多数の離島が存在し本土から遠隔地にある「地理的事情」、③我が国でも稀な亜熱帯地域にあること等の「自然的事情」、④米軍施設・区域が集中しているなどの「社会的事情」、以上四つである。

 私が問題だと思うのは、この四条件が疑うことなく当たり前のこととされ、そしてこれに基づき多額の予算が沖縄だけに投入され続けてきたことである。

 今、私の手元一冊の本がある。沖縄県出身のジャーナリストで、現在拓殖大学で客員教授をされている恵隆之介氏が書いた『誰も語れなかった沖縄の真実』という本である。この本の中には、政府が常識としてきたことを覆すような驚くべき事実が沢山書かれている。まず、沖縄が米軍の統治を受けることになった裏には、日本の天皇陛下の御意向があったというものである。天皇陛下は終戦当時、ソ連と中国が沖縄に侵攻してくることを危惧し、それを防ぐため、沖縄を守るために、日本国に沖縄の主権を残したままで長期の米軍の軍事占領を要望したというのである。しかしこれが今や捻じ曲げられてしまって、「日本政府は沖縄を切り捨てた」として、主権回復記念日の制定に沖縄県は断固として反対を唱えるまでに至っている。

 更に、その後の米軍統治下の沖縄の状況についても、これまで沖縄県民は多大な苦しみを味わってきたと語られてきたが、事実は大きく異なっていたと書かれている。例えば、戦前の沖縄は感染症のデパートとも言える状況であったのが、米軍統治時代、米国が沖縄の医療・看護の技術を革新的に発達させ、感染症を撲滅したという事実。また、子どもたちの教育の普及のため学校などのインフラ整備を行っていたという事実。そしてなによりアメリカの財政移転等により、戦前と比較し沖縄の経済が20%も成長したという事実である。本土復帰の際、実は沖縄の財界が現状維持を望み反対した事実も恵氏は指摘している。

 つまり、沖縄に多額の補助金を投入し続ける最大の前提となっていた「約26年間の米軍統治」が、その後日本政府が補償をしなければならないような「塗炭の苦しみ」ではなかったという事である。

 更に、恵氏は本の中で米軍施設が沖縄に集中しているという客観的事実にも異論を唱えている。マスコミは全て「在日米軍基地の75%が沖縄に集中」としているが、実はこれは分母を「米軍専用施設」に限定しており、日本の自衛隊との「共有施設」を分母に含めれば、なんと沖縄の米軍施設は全国の22.6%に過ぎないのである。例えば青森県三沢の米軍基地は、自衛隊の使用部分が全体の僅か3%だが、自衛隊との「共有施設」のため分母から省かれている。また日本で一番大きい横須賀の基地や、沖縄市や宜野湾市の米軍基地よりも大きな基地を抱える岩国も自衛隊との「共用施設」ということで分母から省かれている。

 このように、沖縄が米軍統治下で苦しい思いをしたという「歴史的条件」や、米軍基地の殆どが沖縄に集中しているという「社会的条件」は、現在は疑う余地のない事実とされているが、おおよそ実態と異なっている可能性があるのだ。また、「自然的条件」と「地理的条件」についても離島振興法等によって別の分野で予算化され対策がなされている。従って、「歴史的条件」「社会的条件」が実態と異なっていたというのであれば、当然現在に至るまで沖縄に多額な補償や補助金を出してきた政府の方針は変えなければならない。

 一方で、確かに戦争中に北方領土と同様、沖縄でも悲惨な「陸上戦」があり、沢山の人々が亡くなったことは事実だろう。それに対して後世の私たちが何らかの感謝の意、あるいは補償や保障をすることも大切ではある。しかし、まず沖縄で亡くなった人の多くは本土から出兵した他府県出身者が含まれており、私の祖父の兄も沖縄戦で戦死している。また、仮に沖縄の人々が多大な苦しみを経験したとして、その補償が必要だとしても、戦後日本政府は沖縄に対しては既に14兆円とも言われる莫大な予算を投入してきた事実があり、そもそも感謝の意についてはお金よりも教育等により気持ちでなされるべきものである。

 加えて私たちが考えなければならない重要なことは、戦後沖縄に莫大な補助金を投入してきたことがかえって沖縄の「自立」を阻害してきたという事実である。国の手厚すぎる補助金のせいで、沖縄県内の産業は育たず、国への依存度は次第に高まっていった。役所は「一定程度インフラ整備は進んだ」と主張するが、予算を投入すればハード事業はある程度進むに決まっているし、それ以前に大切なことは、いかにして沖縄県を「自立」させ「成長」させるかという視点である。

 にもかかわらずその「自立」や「成長」といった視点を議論せずに、ただただ莫大な予算を投入し続けたせいで、沖縄県の「財政力指数」は未だ全国平均の6割程度しかなく、「完全失業率」に至っては昭和47年の本土復帰以降、常に全都道府県の中で最悪の47位に位置している。これでは安倍総理が「自らの生活は自らによって支える自助・自立を基本とし、これをお互いが助け合う共助によって補完し、それでも対応できない者に対しては公助によって支えるという順序によって図られるべきです」と主張した「自助・共助・公助」の基本精神に反することになる。

 既述の恵氏はこれまでの政府の沖縄振興の在り方を見て、「沖縄を生活保護県にするな」と言い、「本土人は沖縄県民にたかりを教えた」とまで語っている。また軍事ジャーナリスト井上和彦氏は「沖縄の問題は全てカネに集約される」と述べていた。

 ここでは詳しくは書かないが、沖縄の普天間基地の建設経緯や辺野古移設問題の経緯を見れば、基地誘致は、沖縄が望み、沖縄が反対する、という奇妙な構図が見えてくる。一見矛盾するが、沖縄県民は補助金をもらうため基地誘致を望み、補助金をもらうために基地建設に反対しているのである。今回の与那国島の町長が自衛隊の基地建設を切望し、いざ誘致が決定すると、防衛省の補償提示額以上を望み反対に回るのと同様の構図である。

 私は沖縄の未来を考えるからこそ、いつまでも「補助金漬け」にし続ける沖縄振興対策のあり方を大きく転換していかなければならないと考える。そして「米軍による26年間の統治」がどういうものであったか、再度検証作業が必要であろう。今後安全保障委員会や外務委員会でこの問題を取り上げていきたいと思う。

引き続き「一票の格差問題」を考える。 - 2013.04.01 Mon

 現在議論が盛んに行われている「一票の格差問題」について、引き続き論じたい。というのも、自民党が現在推進している「0増5減」を実行しても、「一票の格差」が最高裁の指摘する「2倍未満」にならない可能性が指摘され始めたからである。その原因は都市部と地方の人口差が、日に日に拡大しているからだ。現在「衆院選挙区画定審議会」が勧告した「0増5減」改定案は、2010年10月時点の国勢調査の人口を基準にしている。しかし各自治体が今年1月公表した人口(速報値を含む)で試算すると、改定案の人口上位10選挙区のうち9選挙区が2倍を超えるという結果が出ている。そして現在も都市部と地方の人口差が拡大しているため、次期衆院選までに1票の格差がさらに拡大する可能性が高いとの予測もある。

 私はこれまで述べてきたように、そもそも「人口割」を最重要視して選挙区を考えるべきではないという考えである。なぜなら端的に行って、地方自治の重要度、それから面積や地勢等も勘案して選挙区を考えるべきだと思うからである。

 この点につき、興味深い事例は米国の上院である。「法の下の平等」を標榜するアメリカ合衆国の上院は、人口の多い少ないにかかわらず、全ての州から「平等に」2議席ずつ上院議員を選出している。例えば、人口が54万人と最も少ないワイオミング州も、人口が3696万人と最も多いカリフォルニア州も同じ2議席である。両州の「一票の格差」は「67.91倍」にも及んでいる。日本では考えられないこの格差を許している理屈は、どの州にも「自治権」をかなり重く認めるという考え方に基づく。

 合衆国連邦政府を「国連」に例えるとわかりやすいかも知れない。例えば現在殆どの国が国連に各国代表として国連大使を一人ずつ派遣しているが、これは人口や国力にかかわりなく平等に「国家主権」を認めるという考え方に基づく。これについて、裏を返して仮に国連が全て「人口割」で物事を決めてしまう制度だとすれば、人口の多い中国とインドが全てを決定することになる。しかし、それでは「平等では無い」ということで全ての国に「国家主権」を認める今の体制になっている。つまりここで言う「国家主権」が、アメリカの上院が重視する各州の「自治権」を指していると考えることができるだろう。

 日本でも同じように、自治を重要視する観点から選挙区割りを定めた事例がある。例えば鹿児島県では平成23年4月の県議選で有権者数に応じて定数を54から51に減らした。この際、2から1に減るはずの「西之表市・熊毛郡区」については「諸問題を抱える離島地域への配慮」から現状維持とした。地元県議は「過疎地と大都市が抱える事情の違いを考慮し、こういった配慮は必要だ」と述べている。

 さて、論点は違うがもう一つ今の「一票の格差問題」で議論されていない論点を指摘したい。それは現在の「一票の格差」の議論が小選挙区のみで行われており、比例区の議席を考慮していないという点である。これについては平成19年6月13日の最高裁大法廷の判決に付された那須弘平裁判官の補足意見が非常に的を射ている。

 那須裁判官は、国政選挙における投票価値が平等であるかどうかを検討するには、衆議院であると参議院であるとを問わず、「同一の選挙の機会に実施される小選挙区と比例代表選挙を一体のものとして総合的に観察すべきである」と述べている。そしてその理由については「それぞれの選挙人が選挙区の候補者に1票を投じた同じ機会に比例代表の候補者ないし政党に1票を投じ、この2つの投票行動が相まって各選挙人の政治的意思決定の表明となることを重視する考え方によるものである。制度的にみても、選挙区選挙と比例代表選挙とは無関係な2つの選挙がたまたま同時に行われるということではなく、被選挙人の定数や選出母体となる区域等についてそれなりの関係付けをした上で一体のものとして設計されており、当選した候補者は選挙区選出議員か比例代表選出議員かで区別されることなく、同じ議院の構成員として立法活動に携わる制度となっている」と述べている。

 そして那須裁判官は次のように結論付けている。「小選挙区選挙と比例代表選挙を併せて総合的に見ると、小選挙区選挙を単独で見た場合よりも相当程度較差が中和される結果になる。この点につき…試算してみると、小選挙区における最大較差は…1.613倍となる。従って、『1人2票』未満かどうかという基準からは、本件区割規定が憲法違反であるとまでは言えないことが明らかである」。

 私は必ずしも「一票の格差」を「1対2」未満に抑えるべきだとは考えていないが、仮に裁判所の言う「1対2」に抑えるべきだという立場に立ったとしても、那須裁判官の指摘するように比例区を勘案すれば、「1対2」未満に抑えられていると言えるのである。

 そもそも「1.9倍は合憲」で「2.1倍は違憲」だとする根拠は明白ではない。今回の違憲判決は、邪推すれば安倍政権への変化球的な攻撃ではないかとさえ思える。前にも述べたが、立法府は司法の意見に右往左往するのではなく、しっかりと議論を行い日本の国政を行う上でどのような選挙制度が最も良いのかという視点で選挙制度改革の結論を出すべきだと思う。ちなみに私は「0増5減」とかいう小手先の改革ではなく、また比例区を大幅に削減するという改革案でもなく、もっと根底から「二院制のあり方」や「民主主義の正統性」という点まで含めて大局的な大議論を行うべきだと考えている。


「三権分立」と「統治行為論」 ~「一票の格差問題」を機に考える~ - 2013.03.27 Wed

 いわゆる「一票の格差」をめぐり議論が盛んになっている。きっかけとなったのは3月25日に言い渡された広島高裁の判決である。広島高裁は、「一票の格差」が2,43倍となった昨年12月の衆院選について「違憲で無効」とする判決を言い渡した。1962年以来、弁護士グループが「法の下の平等を定めた憲法に違反する」とし、定期的に「選挙の無効・やり直し」を求めてきたが、「無効判決」が出されたのは今回が全国で初めてである。

 さて、少し視点は変わるが、先日次のような見解を耳にした。「裁判所はこれまで、自衛隊に違憲判決を出せず、『統治行為論』だと言って判断から逃げた。だから日本国民は自衛隊の存在についてしっかり考えてこなかった。早くに『違憲判決』を出しておけば、今日抱えているような問題にはならなかっただろう」。確かに裁判所が「自衛隊は違憲」だという判決を下していれば、もっと早くに憲法が改正できていたかも知れないし、もちろん「自主防衛」の議論も発展を見ただろう。そういう意味で言えば、確かに憲法改正が出来なかったのは国会だけの問題ではない。

 ところで、ここで言及したいのは「統治行為論」とは何か、という点である。「統治行為論」とは、「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、高度の政治性を有するがゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論」のことをいう。こうした理論の背景には「三権分立の原則や国民主権原理の観点から、民主的基盤が弱く政治的に中立であるべき裁判所にはその性質上扱えない問題が存在するという考え方(内在的制約説)」と「法政策的観点から裁判所が違憲・違法と判断することにより生ずる政治的混乱を回避するため自制すべき問題があるという考え方(自制説)」がある。

 ここで「一票の格差問題」に話を戻したい。自衛隊の合憲性や日米安全保障条約の合憲性について、「統治行為論」という論理を用いて判断から逃げた裁判所が今回、先の衆院選は「違憲であり無効だ」という判断を下した。はっきり言ってこの判決により生ずる政治的混乱は非常に大きい。しかも判決は選挙について「違憲であり無効」と言いつつ、選挙のやり直しや選挙制度改革については全く言及していない。ある人は「解決策を明示せず無効判決を下すのは極めて無責任だ」と裁判所を批判していた。一方で私が思うのは、裁判所が選挙の違憲・無効を判断することや、選挙制度の改革を求めるのは、まさに司法の「統治行為への介入」ではないかということである。

 更に私はそもそも「一票の格差問題」には、より深い議論が必要だと考えている。まず現在、議員定数の削減と一票の格差の議論をすべて「人口割」の視点のみで行っているが、「人口割」のみを原則として話を詰めていくと都市ばかりに議員が集中し、地方の議員は激減してしまう。例えば、選挙区は都道府県とし、有権者数比で480議席を全部割り振ると、東京は47議席にもなるが、鳥取県は2議席。確かに一票の格差は1.26倍まで縮小するが、これでは東京をはじめとした大都市圏の課題ばかりが国会で議論されることになりかねない。また今の小選挙区300議席を、格差是正を目的として割り振ると、鳥取は1議席、東京は29議席、格差は1.68倍となる。従って、国会内には選挙区を「人口割」ではなく、「面積割」で考えるべきだとする意見も根強い。

 また、議員定数を都道府県選挙区のまま最小限まで減らしたいとなると、最少で108議席。それ以下だと鳥取が0議席になってしまうからだ。108議席だと、鳥取、島根、福井、高知、徳島、佐賀、山梨、香川、和歌山、富山、宮崎、石川、沖縄、秋田、大分、山形、滋賀、岩手、奈良、青森、長崎、愛媛、山口、鹿児島が1議席。東京は10議席。これまた大都市だけが議席数が多くなる一方で、更に格差は2.88倍となってしまう。つまり都道府県選挙のまま議員定数を極限まで減らすと格差が大きくなってしまうのである。理由は、1.5議席とは割当られないので、四捨五入して1.4議席は1議席に、1.5議席は2議席とカウントせざるを得ないからだ。

 つまり「一票の格差是正」のみを目的として選挙制度改革を行うのであれば、全て「全国区」にするしかない。しかし、もともと都道府県単位で選挙制度を導入したのは「政治的にまとまりのある単位を構成する住民の意思を集約的に反映させることにより地方自治の本旨にかなうようにしていこうとする」目的があったからであり、「全国区」はこの目的に反することになってしまう。だからこそ以前、格差是正のために鳥取県と島根県の選挙区を合区する意見が出されたとき、最高裁判事5名が否定的な意見を出した。

 一方、「全国区」は極端で地域性が無くなるという理由から、現在の「比例区」のみに480議席を有権者数で割り振ると、最少は四国の16議席、最大は近畿の78議席。確かに格差は1.03倍と非常に小さくなる。また、現在の比例180議席を割り振っても格差は1.05倍と非常に小さい。つまり、現在国会では、比例復活の議員を「ゾンビ議員」などと呼び、「小選挙区で敗れているのに復活するから民意を得ていると言えない」として「比例定数」の削減ばかり議論しているが、比例定数の削減案は、「格差是正」ではなく「格差拡大」につながるという逆の結果をもたらす。

 また別の視点だが、各選挙区の有権者数を揃えても選挙区ごとに投票率が異なり、総投票数に差が出るため、投票率の高い選挙区の一票の価値は小さくなり、投票率の低い選挙区の一票の価値は大きくなるという、投票率による一票の格差の問題もある。この問題を解決するには、投票を「義務」とするかどうかなどの別の大きな議論が必要となる。

 以上のことを考えると、都道府県単位の選挙制度では「格差問題」は完全に是正されることはないし、比例区だけの選挙制度にすると今度は地域性がなくなってしまうという地方自治上の問題点が生じる。

 また、そもそも「一票の格差」が「2倍を超えると違憲ないし違憲状態」としている学説が多いが、この数字の根拠も明確では無く、憲法学会でも意見が分かれている。調べてみると、衆議院の最大格差については「1対2未満」とすることがほぼ通説となっている一方で、「1対1」を基本原則とすることを主張する学説も見られる。また参議院については、真にやむを得ない合理的な理由の存する場合に限り「1対2」よりも若干の緩和が認められるという学説が有力であるが、これも「1対1」を原則とする主張や、逆にある程度の格差を許容する学説も見られる。つまり学説上も格差許容の程度にばらつきがあり、どの程度是正されるべきか定まっていないのが現状である。

 以上、様々な問題点や私の考えを書いてきたが、最後にもう一つ大きな問題点を指摘したい。そもそも今回の高裁判決は「三権分立」の精神に反するのではないかという点である。確かに裁判所つまり司法の判断は意見としてしっかり受け止めなければならないが、特にこの問題のように政治や民主主義の根幹にかかわる問題については、まさしく「統治行為論」であって、まして「三権分立」という司法・立法・行政が対等であるべき国家制度になっている以上、司法の判断が「金科玉条」のごとく主張されるのはおかしく、司法が立法・行政を縛るものではない。

 今後この「一票の格差問題」について様々な議論が行われていくと思うが、「立法府」つまり国会は国会としての見解をきちんと示すべきだし、場合によっては、三権分立の観点から、司法に対して「統治行為に介入すべきではない」という国会決議を出すべきではないかと考える。

「ダモクレスの剣」 - 2013.03.12 Tue

 ヨーロッパの古い言葉に「ダモクレスの剣」という言葉がある。ギリシャ神話の中に出てくるシラクサの王ディオニシオスが、王位の権力と栄光を羨む臣下ダモクレスに対し、天井から馬尾の毛一本で剣をつるした王座に座るよう命じ、一見豪華で幸福に見える王者の身辺は、実際は常に危険があること悟らせたという逸話に基づいたヨーロッパの故事成語である。

 昨日、天皇皇后両陛下ご臨席の下行われた東日本大震災二周年追悼式に出席した。愛する家族を一度に失った数多くの遺族に出会った。特に宮城県の遺族代表として言葉を述べた西城卓也さんの話は、涙を誘うものだった。彼はまだ若いが、震災で妻と子どもを失った。妻と一緒に家事をしたり、子どもと遊んだりして過ごした家族との日々を今も思い出すと語っていた。御霊前で言葉を述べている間、会場全体が涙に包まれていた。彼ら遺族の方々は、本当に深い悲しみを乗り越えて、必死で生きようとしている。

 東日本大震災が私たちに示した教訓は数多くあるが、その中に政治の役割の一つとして「災害に強い国づくり」がある。まさしく再び大切な家族を失わないために、いかに「災害に強い国」をつくるか、それが今政治に課せられた非常に大切な課題である。そしてそれが本当の「日本強靭化」なのである。

 京都大学の藤井聡教授は、著書『列島強靭化論』の中で驚くべき歴史的事実を述べている。宮城県沖でM8以上の地震が起きたことは過去2000年間で4回あって、その4回とも前後10年以内に首都直下型地震を伴っているということだ。しかも4回のうち3回は18年以内に南海トラフ地震を伴っているという。

 その歴史的事実について地震科学者は「いくら歴史的にそうだとしても、地震のメカニズムとして連動して起こるかどうかはわからない。だからそういうことは科学的でないから言うべきではない」と言う。しかし政治は、歴史も教訓に最悪の事態を想定して備える必要がある。いざという時に国民の命を守ることこそが政治の使命だからである。

 一方で大半の野党やマスコミは今、自民党が進めている「災害に強い国づくり」、いわゆる「国土強靭化計画」について、「公共事業のバラマキだ」などと批判している。確かに、これまでに明らかになってきたように公共事業をめぐる「政治と金」の問題は存在する。しかし「悪」なのは公共事業をめぐる「政官業の癒着構造」そのものであって、「公共事業」そのものではない。最近の議論はそこをはき違え、公共事業すべてを「悪」としてしまっている。民主党が掲げた「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズはその象徴である。

 しかし、先に述べた京大の藤井教授は、歴史的事実から、8年以内に再び大地震が来る可能性を指摘している。つまり「日本強靭化」は喫緊の課題なのである。東日本大震災を機に、私たちは本当に必要なものは何か、もう一度見直すべきだろう。世界有数の先進国として裕福に見える日本国民は、再び近く起こるかもしれない大震災というまさに「ダモクレスの剣」の下で暮らしていることに気づかなければならないのである。


「体罰」について考える - 2013.02.19 Tue

 昨年12月下旬、大阪市立桜宮高校バスケ部の男子生徒が、監督から「体罰」を受けたことを理由に自殺した。確かに非常に痛ましく、悲しい事件である。繰り返してはならない。しかしこの事件を相対化し、「体罰」自体を完全に否定するのには、私は疑問を抱く。

 今日2月19日参院予算委で、安倍総理は体罰について「断ち切らなければならない悪弊だ。日本の伝統という考え方は間違いだ」と述べ、「政府としては体罰の考え方をより具体的に示し、学校現場の過度な萎縮を招かないよう配慮しながら体罰禁止の趣旨の徹底を促したい」と答弁した。

 確かに、「教育上の体罰」と「教師による個人的な暴力」は紙一重であって区別するのは難しい。しかしだからと言って「体罰」そのものを全否定してしまうのは間違っていると私は思う。口で注意することが先ずは最も大切だが、口で注意してもわからない「いじめっ子」や「暴力をふるう子」に、皆の前で「げんこつ」をはったり「廊下に立たせ」たりする「体罰」は、長く記憶に残りやすく、より教育効果が高い。また皆の前で「恥」をかくことでなおさら「非行」はしなくなっていく。「暴力をふるう子」は、時には「げんこつ」程度では済まない場合もあるだろうが、実際「体罰」が教育的に非常に大きな成長を促したり、更生させたりするケースが多いのも事実だろう。

 親も学校も見捨てた「非行少年・少女」たちを全て受け入れ、真正面から向き合い、数多くの子どもたちを更生させてきた戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏は「体罰」は「善」だと言い切る。石原慎太郎氏や櫻井よし子氏らが支持する戸塚氏によれば、「体罰」とは「進歩を目的とした有形力の行使」であり、「礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なもの」だという。そして、続けて更に「子どもが困っている。体罰をすれば簡単に治る。それがわかったから、儲からないのは分かっていたが体罰を行うために、私のヨットスクールはあえて学校法人にしなかった。子どもは体罰を受ける権利があるんです」と主張する。

  一方彼は、当然だが「暴力」は許されないとも言う。自己の利益、不満解消(鬱憤晴らし)、虐待を目的として人(弱者)に対して有形力の行使をして傷つける行為は、家庭内であれ、学校内であれ、社会内であれ決して許されない。進歩を目的としない「暴力」と、進歩を目的とする「体罰」とは根本的に異なるのである。

 問題は、「暴力」と「体罰」の区別がしにくいところにある。けれども「体罰」を全否定、全面禁止にするのは、教育現場の委縮を招き、子どもによる「はき違えられた自由」を横行させかねない。静岡県のある高校教員は、大阪市立桜宮高校の問題が発覚して以降、ささいなことでも生徒たちが「体罰だ、体罰だ」と口を出し、きちんとした指導が行き届かない状況があることを語っていた。同様の指摘は他にもあり、先生がちょっと怒っただけでも「ターイバツ、ターイバツ」と連呼するクラスがあるとの報告もある。教師たちも戸惑いながら生活指導にあたっている事例が数多くあるだろう。

 私は、「体罰」について、その是非は個別のケースで丁寧に論じなければならないと思う。また、部活における「体罰」や、校則違反や校内暴力での「体罰」も一緒にするわけにはいかないだろう。つまり「体罰」を一括りにして、一概に禁止すべきではないと考えるのである。

 一方、京都大学の佐伯啓思教授はこの体罰問題について、より掘り下げて次のように語っている「かつては、教師に激しくしかられたり、あるいはいじめにあったりすれば、友人や先輩が相談にのり、家族や親類が支え、年長者が助力になったりしたものである。確かに、家族はあまりに密度が高すぎるのでかえって相談しがたいものはあろう。親には話しにくいものである。しかしそれでも、親や兄弟のまなざしを感じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。今日、そういう「信頼」できる関係の場が失われてしまっているようにみえる。だから問題は、学校も家庭も地域もむしろ「近代化」してしまって、「前近代的」な人間同士の触れ合う場がなくなってしまった点にある。」

 確かに、「体罰」を受けた生徒が、「心のよりどころとする場」を失っているところに根本的な問題があることもよく理解できる。「体罰」の必要性を教育現場に認めた場合、子どもの「心のよりどころとなる場所」を社会として、学校として、家庭としてどう確保するか、教育者はそのこともよく考えたうえで、子どもに愛情を持って「叱る」ことが何よりも必要であろう。


中国から飛来する環境汚染物質に毅然とした対応を - 2013.02.04 Mon

 数年前から、中国から来る黄砂の影響で日本の喘息患者の症状が悪化している事実が指摘されてきた。確かにこれに関しては自然現象であり、中国にその全ての責任を求めるべきでは無いとする意見が妥当だと私も考えてきた。しかし最近は黄砂だけではなく、「大気汚染物質」まで飛来しており、喘息のみならず、花粉症やアレルギーまで患者が増加、症状が悪化するなどの実害が出ている。そして更に、慢性気管支炎、肺がん、心臓病の原因になる可能性も指摘されている。

 日本に飛来している「環境汚染物質」というのは、主に中国の工場の排煙などに含まれる直径2・5マイクロメートル以下の超微粒子物質「PM2・5」といわれるものである。この物質が、西からの風で中国から日本に運ばれ、近畿や九州など西日本各地に悪影響を及ぼしている。富山県・立山で約10年前から、積雪や雨、霧の成分を調査している富山県立大の渡辺幸一准教授が、汚染物質粒子のデータと気象データをあわせて判定することで、有害物質が中国から運ばれてきたことを確認。教授は「特に黄海沿岸の工業地帯から運ばれてきた可能性は高い。シミュレーションでは九州、山陰の日本海側を中心に、近畿から太平洋側にも及んでいる」と話している。

 さて、こうした事実があるにもかかわらず日本政府はこれまで放置してきた。確かに尖閣問題で日中関係が悪化し、首脳会談が行われていないとは言え、このように国民の安全・安心にかかわる問題は遠慮すべきではない。ただちに調査を行い、中国からの環境汚染物質が原因となって実害が出ているのであれば、損害賠償請求も視野に入れていくべきだと私は思う。私の所属委員会が外務委員会と安全保障委員会なので、このことについてしっかりと意見を述べていきたい。

 話は変わるが、私は大学時代国際環境法のゼミで「トレイル溶鉱所事件」を研究したことがある。この事件は、1941年カナダの溶鉱所から排出された亜硫酸ガスがコロンビア川の渓谷にそって南下、アメリカ合衆国ワシントン州の農作物や森林に被害を与え、それに対し米国政府がカナダ政府に損害賠償を求めた事件である。この裁判は結果として、国際的な公害事件において「領域の使用に関する国家の管理責任」を認めた初めての裁判事例となり、カナダは損害賠償としてアメリカ合衆国に35万ドルを支払うこととなった。米国は隣国といえども遠慮せず科学的データをもとにカナダを提訴し、国民の安全・安心を取り戻した。

 話を元に戻す。中国から来る超微粒子物質「PM2・5」について、九州大学の竹村俊彦准教授は「健康な人に急激な影響はないかもしれないが、呼吸器や循環器系の疾患がある人は注意が必要」と指摘。市販のマスクではPM2・5の粒子が素通りしてしまうので、医療用のマスクを用いるか、外出を控えるなどの対策が有効という。国民の健康を守るのは政府の役割である。まして「安全・安心できる国づくり」を基本理念の一つに掲げるのであれば、このような問題から逃げてはならない。しっかりとした調査を行い、国民を守るための政治を行うことが政権に復帰した自民党政権の大切な仕事だと私は思う。




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プロフィール

武藤貴也(むとうたかや)

Author:武藤貴也(むとうたかや)
昭和54年5月25日、北海道釧路市生まれ。血液型O型。東京外国語大学卒業、京都大学大学院修了(専門は外交・安全保障・国際法)。平成21年「全国公募」で自民党滋賀県第四選挙区支部長に選ばれ、平成24年第46回衆議院議員総選挙で初当選。外務委員会・安全保障委員会所属。麻生派(為公会)。近江八幡市在住。

*滋賀県第四選挙区(東近江市、近江八幡市、甲賀市、湖南市、日野町、竜王町)

国会事務所:
東京都千代田区永田町2-2-1
衆議院第一議員会館601号室
TEL:03-3508-7126
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滋賀県近江八幡事務所:
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滋賀県甲賀事務所:
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●むとう貴也の基本理念
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